川上哲治氏死去


熊工といえば巨人・川上哲治 熊工の名を世に知らしめた川上大先輩が亡くなりました。

巨人V9「打撃の神様」川上哲治氏が死去

 プロ野球往年の強打者として「打撃の神様」の異名を取り、監督としても巨人をV9の黄金期に導いた元巨人監督の川上哲治(かわかみ・てつはる)氏が東京都稲城市内の病院で老衰のため10月28日に亡くなっていたことが30日、分かった。93歳だった。熊本県出身。葬儀・告別式は、近親者により執り行われた。
 昭和13年、熊本工から巨人入団。入団当初は投手だったが、当時の藤本定義監督に打力を買われ、内野手に転向した。
 2年目の14年に打率・338で首位打者を獲得。兵役についた18〜20年を除き巨人の4番に定着し、故・大下弘氏(セネタース)の青バットに対抗して赤バットを使用した打撃でプロ野球ファンの人気を不動のものにした。左の強打者として「打撃の神様」との異名も取った。背番号16は球団の永久欠番。
 プロ18年間の通算成績は打率・313、2351安打、181本塁打、1319打点。首位打者5度、本塁打王2度、打点王3度を獲得。40年に野球殿堂入りした。平成4年には文化功労者を受章した。
 36年に巨人監督に就任後は長嶋茂雄、王貞治の「ON」をチームの主軸にすえ、40〜48年までの間にV9を達成。監督通算14年間でリーグ優勝11回を経験し、日本シリーズでは一度も日本一を逃すことはなかった。巨人退団後は、プロ野球の評論家として活動していた。


46mura氏の思い出。
高校2年の時、川上先輩が長嶋、王を連れて春のキャンプのついでで講堂で講演した思い出があります、昭和45年だと思いますがその時の機械科主任が吉田章先輩でいきなり熊工は色は黒いが血は赤いと叩き込まれました。


     熊工入学

中学進学の時がやって来たが学費を出す余裕などない川上家に熊本工から誘いがきた。成績優秀につき、県から学費も出してもらえることになり、晴れて熊工野球部員。大きな望みである甲予園を目指すことになる。急速に、野球が川上少年の身を包む環境と移り変わる。 だが、躾は予想を蓬かに超える厳しさで、練習態度、師への姿勢、先輩たちへの礼節。全て野球と変わらぬスパルタが待ち受けていた。哲治はここで、のちに揃って巨人に入団する捕手の吉原正喜とバヅテリーを組むことになる。
合宿などない時代のことだ。自宅通学に限られている選手たちのなかで.汽車で3時間かかる人吉からやって来た川上投手だけは下宿せねばならない。しかし、下宿代を払えるわけがない。学校側から思案の末に名案が提示され、正門脇の門衛室で寝起きすればよいということになった。
ところが、傍目には名案でもあったこの提案が、本人にとってはとんでもない選択となる。昼間の賑わいが去ったあとの学校の夜は、物音一つ聞こえぬ静寂に包まれ.不気味さばかりが漂う。
眠れぬ少年は起きたままでひたすら今日の復習、明日の予習に励むのでした。
恐怖感に怯える夜を勉強に勤しんだ結果、哲治はまたしてもトップクラスの成績を維持するのであった。
志学の意志は次第に身体を鍛え上げ、少年の身心は名実ともに向上して、熊工は甲子園に出場することになる。1934年(昭和9年)、8番、右翼手、川上哲治。
(羽佐間正雄著 打撃の神様川上哲治より) 


    甲子園出場 

二年生14歳、大舞台に震えていた。現在でいえば、「高校野球選手権」いまの中学二年生が出場するわけだ。童顔の選手はただ無我夢中、ほとんど夢のなかの世界にいた。
それでも1回戦に夢中で振ったバットから、三塁の後ろに落ちるテキサス安打が出る。
しかし、甲子園でポテンと落とした初安打は同点になる一打であった。心血を注ぐ気が、この頃から勝負強さまで同伴していたようだ。
川上哲治初出場の熊本工は、強敵をなぎ倒す勢いで決勝戦に進んだ。広島の呉港中学(現呉港高校)との優勝戦であったが、バッターボックスに入って驚いた。マウンドに仁王立ちの投手は、無精ひげが伸びていて鬼の形相で見下ろしている。後年、元祖ミスタータイガースとなる藤村富美男であった。
「おっさんのごたる・・・・ 中学生じゃなかばい」投げ下ろしてきた速球が半端ではなかった。あっと思ったらビシッとミットの音。
「こちらは紅顔の美少年ですよ」 と強調しながらも、「私なんか子供扱いで眼中になかったようで」頭の上からストンと曲がり落ちる球を見て、3回の打席で全て三振でしたね」
一度かすっただけであった。あまりのもの凄さにただ驚き、自分たちもあれほど練習してきたのに、と衝撃の対戦は2点とられて準優勝に終わった。「あんな鬼みたいな人」を、相手に対戦したのは生涯通じて一度だけの体験であった。


     甲子園での出会い

その後も1936年(昭和11年)の春に甲子園出場。1回戦で桐生中(現桐生高校、群馬県)に敗れ去ったが、翌年の夏に再び出場で、またも決勝戦まで進むものの、今度は強豪・中京商業(現中京大学附属中京高校、愛知県)のエース野口二郎(元阪急)に1対3で敗れ、大望を果たすことはできなかった。
それにしても、人生一度の出会いは再度の巡り会いを招くもので、甲子園で鬼に見えた呉港中の藤村とは巨人・阪神の主砲として対決する日が、それから4年後に到来する。
物干し竿・藤村(長尺ハヅト)と川上の弾丸ライナー。プロ野球の見せ場へと発展いく。
文武両道に邁進できた満足感に満たされていた。グラウンドだけではなく、教室にも全力で取り組むことで成績も優秀。県からの月謝援助と野球部後援会から月5円の学資支援が、貧困家庭の長男を救ってくれた。哲治は文房具を買うほかに、 一切の無駄遣いをしなかった。5円の内から毎月1円を貯めては、母に送り続けていたのだ。これが以後、父を失い、巨人軍の監督を引退したあとに母親が亡くなるまで続く「仕送り人生」となるのである。
3度目の甲子園が終わった1939年(昭和12年)夏。17歳の少年には虚脱感が漂っていた。甲子園の決勝戦を二度も戦い抜いた達成感はたしかにあったが、新たな目標を定め、大人の道へと踏み出さねばならない。さらに家族を支える生計への義務感もあって、のんびり過ごしているわけにはいかなかった。
熊工ナイン 後列右端が川上、中央が吉原正喜
            (1944年に戦死)

    巨人へ入団  

幸いというべきか、その時代に盛んだった実業団野球から就職の誘いも動きはじめる。門司鉄道管理局(現JR九州)からの話が出てくる。
門鉄からの話に心動くようになってきた。
ところが、天が川上家に運を運んで来る。1年前にスタートしたプロ野球は7球団から8球団に増えてはいたが、いずれも選手たちを兵役にとられ、戦力の低下に悩まされていた。とくに、大学出の選手は年齢的に軍隊入りの適齢期であったので、新人の発掘に乗り出していた。甲子園の準優勝校である熊工に勧誘がやってきた。捕手の吉原正喜が目当てであった。しかし、当時の校長は家族の面倒を一手に引き受けなくてはならない川上家の窮状を心得ていたので、バッテリー二人を入団さぜてほしいと訴えたのである。たしかに、早くから投げ続けていた投手・川上の左肘は無理がたたって真っ直ぐ伸びなくなっていたほどで、投手としての可能性は薄かったのだが、校長直々の懇願もあって二人揃って巨人入りが決まる。
「私は刺身のつまだった」と本人は語ったものだが、打撃を見たところライナーを連発するので、合格したというのも事実である。契約した給料は110円。門鉄の3倍であった。その時代の大学出の初任給が5,60円だからものすごい額だと川上は内心驚いたし、その上に支度金も出してくれるという条件であったので、親孝行に大きな弾みがつく。
卒業まで残り半年になった9月。熊本市内の旅館で巨人軍の川上哲治が誕生した。

一、支度金300円也。
一、月給110円也


17歳の少年が大金を手にした。何よりも親が仰天するばかりで言葉の出ぬ始末、破格の条件であったと川上は言う。
打撃の神様の第一歩。1937年(昭和12年)9月。あの驚愕の日を、川上哲治は永遠に記憶し続けるに違いない。
しかしながら、人生にはすれ違いという予測の叶わぬ流れが必ずあるものだ。この契約から僅か1週閲後のことだ。
9球団目のチームとして産声を上げたばかりの「南海」が、勧誘にやってきたのだ。提示された内容は、支度金500円、
月給150円であった。「しまった。早まった……」
17歳ではあるが、金を得るための就職である。残念、無念の思いが悔しさとなって駆け巡るのであった。
ちょうどその日は、熊工野球部恒例の現役・OB戦が水前寺球場であり、主将・吉原と川上はアマチュアとして最後の試合となるこの試合に出場した。川上は、ここで後輩たちに贈る本塁打をかっ飛ばしている。長い聞プレーしたこの球場での.実は これが初本塁打でもあった。

試合を終えて熊本駅に向かうと、少し体調も快復していた父・伊兵次が一人、見送りに来ていた。母が息子に送る祝いの赤飯と味噌漬けの包まれた風呂敷を父から受けとった哲治は、丸刈り頭に学生服、素足に下駄。これが夢の東京に向かう70余年前の姿であった。

僚友・吉原と列車の窓から見送りのチームメイトに手を振った甲子園準優勝のバッテリー。九州と本州を結ぶ関門トンネル完成前のことで、連絡船で下関に渡り、特急「さくら」に乗り換えて一路東京へとなるはずであったが、その時代、巨人軍はすでにシーズン前のキャンプに入っていた。ちょうどキャンプ打ち上げの日になるということで、昼夜、列車に揺られた二人は静岡で下車。そのまま草薙球場に直行する。これが巨人・川上哲治のプロ野球人生スタートとなった。

    現役選手


1951年史上初のオールスターの第1戦で最高殊勲選手に選ばれ賞品の自転車を手にする

第1期黄金時代を築いた沢村栄治(左)と吉原、共に戦死した。

全盛期の川上選手

岐阜県美濃加茂市 正眼寺、梶浦老師の元で修行の末引退を決意する。老師との出会いが後の監督業にも影響を与えた。
監督として
長嶋選手引退試合を終わって記者会見
1974年10月14日

川上哲治氏お別れの会

10月28日に死去した川上哲治氏(享年93)のお別れの会が11月2日、都内のホテルで開かれた。巨人長嶋茂雄終身名誉監督、楽天星野仙一監督ら約900人(一般300人)が出席した。白い花で飾られた祭壇には、若いころの川上氏の写真が飾られ、天皇陛下からの祭粢料(さいしりょう)が置かれた。巨人OB会会長でもあるソフトバンク王貞治球団会長(73)がお別れのことばを読み上げた。

川上さん、ありがとう−。お別れの会は、故人への感謝の気持ちであふれていた。お別れのことばを読んだ王会長は、福岡・平和台で西鉄を下して川上氏が2度目の日本一に輝いた1963年(昭38)の日本シリーズ当時の話を披露。優勝後、外出禁止令が出されたことを例に、故人をしのんだ。「この町は危ないから君ら、外出禁止と。日本シリーズを勝ったのに外出禁止と言われてみんなびっくりしたんですけど、そういうことまで配慮してくれる方だった」。ただ勝つというだけではなく、選手への気遣いなどに、改めて感謝の気持ちを口にした。

球界の「先駆者」だった。祭壇にはV9を達成した年に連盟から贈られたトロフィーが飾られた。そこには選手だけでなく、裏方さんの名前も刻まれているという。スコアラー制度やスカウト網を充実させた川上氏らしい、誇れるトロフィーといえる。また、野村克也氏は川上氏がミーティングで、試合のことより人間育成に力を注いでいたことを知り、見習ったという。川上氏が球界に残したものは有形無形、数知れない。

参列した巨人原監督が言った。「9連覇、日本シリーズにおいて1回も負けたことがない。これをどう表現していいか。どういうふうな方法があるのか。どうやったらそうなるのか。改めてお聞きしておくべきだった。数字の重さ、達成の偉大さを感じた」。巨人は今季日本一連覇を逃しただけに、学ぶべきことはまだあったのかもしれない。

親交の深かった楽天星野監督は、日本一の報告をするとともに、かつての川上氏の考えを披露した。「セとかパとか、コミッショナーがどうのこうのじゃない。『野球界は1つになってもらいたい』と、川上さんもおっしゃっていましたね」。川上氏に対しても誇れる球界をつくっていきたい。それが先駆者へのお礼になる。


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